いじめが
いじめがあった。
悲しいことで私も巻き添い喰らいました。というかもうあいつもいじめとけよ、みたいな感じです。
その後あろうことか私は最低なことをする。いまでも後悔が私を苦しめる。受けて当然の罰だ。
いじめの対象が私と友人だということを元親友?に泣いて電話した。
まぁなにも解決しない。こわいよって言っただけ。
いじめの中心っていわれてる子とは仲が良かったからその子とも話した。どうやら私と仲良くしてた子に気にくわないことを言われたらしい。
家で親兄弟とうまくいってなくてムシャクシャしてたんだろう。誰かを痛めつけたくなったんだろうね。
クラスでそんなことが起きるなんて…。想定してなかったし、そんなことする人じゃないと思ってたからびっくりした。なんて言ってられる程状況はよくなくて…。
次の日から私と友人は完全に孤立した。まぁ今よりはマシだがそのときまで一人ぼっちなのがバレないように生きてきたからね。
話しかけてもいっしょにいじめられるのを怖がって無視される始末(笑)関わってくるなって、目が言ってる。人怖い。
しばらくいっしょに無視されてる友人と過ごしたけど無理だった。
人に無関心なヤツが誰かのためにとか無理があった。
話さなくなった。向こうに潜り込むためって嘘ついたんだ。
私は、クズだ。
いじめが先生に知れ渡ったとき、友人は傷ついていた。でも強かった。
今でも私と仲良くしてくれている。逃げ出した私なんかと、今、周りから見捨てられた私なんかと。もう罪悪感と自己否定でおかしくなりそうだ。
ごめんね。許してください。めいは悪くないよ。なんて言わないで。怒って蔑んでよ。ごめんね。
それでも仲良くしてもらってる私って本当クズ。もうゲスの極み乙女←
最後はふざけたけどあのことが忘れた時に蘇ってきて罪悪感が自己否定と自殺願望を連れてくる。
でも忘れちゃいけないんだ。
わたしが生きてるのは罪だ。
誰かにそうだねって言って罰を与えて許されるって心のなかで思ってるのかもしれない。
死にたくても死ねない。生きるも死ぬもどちらも地獄。
今日も自傷という罰と一緒にずるい私は生きています。
ダメだ
もうダメだ!!本当に。
なんなんでしょうか?あの定期的にやってくる病み期というのは厄介なもので自殺願望も連れてきます。
以前はもう救えないくらい鬱で、でも誰にも言えなくて。
死んじゃいたいよー!って毎日思ってました。
んー、でもここ2、3日はそれよりも激しい。
脳内で何回自分を殺したか笑
目の前のことから逃げたいだけで死にたいなんて。贅沢な話だなぁ。なんて言われちゃうだろうけど。
せめて人に迷惑をかけなければ。役に立てれば。
臓器提供とか生きた人間を殺してできるんならいますぐにでもしたいです。
私が生きてる今は、誰かの生きたかった明日なんだろうけど。
そんなこと思っちゃうのがまた辛くて。
言い訳しちゃうなんてかっこ悪くて。
生きるのも地獄。死ぬのも地獄。
明日は学校。ひとりで頑張らなくちゃ。
個性って素晴らしい。
人よりできないことは悪いことなの?
テレビで識字が難しいディスレクシアについて取り上げていた。
お母さんに私の意見を話したら途中から寝てしまっていました(´・_・`)悲しい笑
めいです。こんばんは。
ということで昨日に引き続き集団について意見を記していきますね♪
今日の日本ではみんな、つまり集団が重視される。ときには集団と離れた少数派を追い詰めたりするくらいだ。
こんなことを言っては生意気かもしれないけれど学校の先生だって「みんなできるのにどうしてできないの?」と言っていた。
知らず知らずのうちなんだと思う。
できない僕、私は恥ずかしい。だってみんなと違うから。
声を大きくして言いたい。『みんな』より一人ひとりを見てくださいと。
効率で考えると1人でやるより力を合わせてやるほうがより大きな成果を得られる。(こういうのはゲーム理論っていうのかな?)
これは人間の基本だ。協力できたからここまで進化できた。
でも集団だからって、大人数だからって個人や少数派を差別したり追い詰めたりするのはおかしいと思う。
集団の中にいたら私たちは正義で、少数派は悪なんだからやっつけろ、くらいに盲目になる。リーダー個人の人格は関係なく。
そういう心理が日本人には強く働く。言い過ぎかもしれないが個性を押し殺して集団に入れっていう感じ。
差別とか攻撃とかそこから生まれるようなものじゃないかと私は考える。
だから勉強ができなかったり運動ができない子たちを、「なんでできないんだ。できないとか恥ずかしい」なんて言っちゃう。それで燃えて頑張る子もいれば潰れちゃう子もいる。どんなに強い子でもお前はダメだと言われ続ければ大体は自信をなくして自分を責めてしまうんじゃないかな?
向上心がなくなったらダメ人間なのかもしれないけどそんなこと言われたら向上心もクソもない。背負いきれない劣等感からはなにも芽生えない。生まれるのは絶望と自己否定だけだ。
もちろん劣等感をあおる指導者ばかりではないということは重々承知の上だが、実際にはいるのだ。そしてそういう教育機関があるのだ。
残念ながら私の通ってる学校はそういう所だ。
不登校の子供を量産するように学校に行けない子が年々増える。できないヤツは切り捨てろ。入ってきたお前が悪いとでも言わんばかりに!そんな事実を無視するように、平然と今年も入学希望者を募集して受験させている。そういう学校が育てるのが少数派を攻撃する集団だ。
そして攻撃されたヤツが私なのだが。(笑)ちゃんと戻ってきましたよ。そんなヤツらに負けてたまるか!!
おっと話がずれた。
うーん。この事実悲しい。悲しすぎるよ。
十代前半の多感な頃に(私がいうのもアレだが)劣等感を掻き立てる集団というのはあまりにも冷酷すぎはしないか?
もっと個人を大事にしようよ。
集団は個人から成り立っているものなのだから。
みんな違うからこそ面白いんだ。
集団の中で見失う
私が肉を食べない訳。(好き嫌いじゃないよ)
2月始まって新しい月も頑張ろう!と思っていたところですが寒すぎて心が折れました。
冬眠したいと思っている、めいです。こんにちは。
ところで、みなさん寒いときは何食べますか?←強引すぎ
*今回は食についての私の意見について書きます。デリケートな問題なので大丈夫だよ!って方はそのまま、ムリ!という方は本文は飛ばしてコメント欄にいって(笑)、是非あなたの意見を聞かせてくださいね!
私は鶏、豚、牛の肉は食べません。去年10月からのことだけど、多分もう一生食べることはないでしょう。
宗教か?!って思った人!待って!!ちょっとだけ付き合ってください。お願い。
肉を食べなくなるまでの人生、肉を思う存分食べてきた。肉は好きな食べ物の中に入るくらいだった。親にも肉を食べないとダメだと言われて育った。親の影響ってすごいよね。子の人生を左右するレベル。いいことも、悪いことも。おっと、親の話は不登校の話と合わせてまた今度。
肉はおいしかった。それは事実。でもね、でもね、おいしいってことよりも大事なことがあると思う。私たちは私たちの口に入れる食べ物について知って、考えて、選ぶ必要があるんじゃないかな?
知って、考えた後に肉を食べることを選んだ人のことを私は非難なんてしようと思わない。それは自由だから。考えてくれたことに感謝したいと思う。
私が言いたいのは、食について考えてほしい。お皿に乗っているものが、生きていたんだ、ということを。ただそれだけのことなんです。
私は一緒にご飯を食べに行ったりした友達に、
「食べるときにいただきますって言うよね。それは動物や植物の命をもらってるからなんだよ。だからいいんだよ。」
とか
「動物食べないって言ったって植物だって生きてるじゃん。」
って言われたことは少なくありません。
偽善だとか、食物連鎖だとかそんなことは後回しでいい!
幼い頃から何度も食べられるために屠殺場に運ばれる豚をみたことがある。疑問に思ってきた。殺されるための命なんてないと。
他の動物を殺してまで得るものが自分の食べたいという欲求を満たすだけなんて…。
動物の命を奪って生き延びる私の命は一体どのくらいの価値があるのか?っておもってしまった。
誰かが大切にしてた牛、豚や鳥。
ステーキ屋さんを見るたびに、テレビでお肉を見るたびに、私は悲しくなる。
考えてほしい。食べるものを選べる人間にしかできない。他のいのちのまもりかた。
元不登校高校生が中学生時代を振り返ってみた件
私は友達に病んでいると言われ続けてきた。
言葉というのは怖いもので、言い続けたり、言われ続けたりすると暗示にかかったようにそうなってしまうときがある。
中学二年生のとき、不登校だった。
小学校まで順調に歩いていたと思う。中学には受験して入ったから私と同じくらい、それ以上の学力の子がたくさんいた。
それまで比較的劣等感とは向き合わない人生を送ってきた(多分小さかったから)。
でも中学に入ったとたんに劣等感しか感じなくなった。自分を全否定された気分になってしまった。
わたしは壊れてしまった。人が怖くなった。
やがて学校にもいけなくなってしまった。
不登校だってみんなから白い目で見られて。
私はこの世にいらない、消えたいよって毎日毎日届かない声で叫んでた。
ここに書いたこと。あのとき感じていたことのすべては記せてない。記憶も曖昧なところがある。
長くなったのでまた明日。
読んでくれた人。本当にありがとう。